逸話・噂話

ベートーベンには、現代においても様々な逸話が伝えられています。 生前のベートーベンから生まれた逸話から、ベートーベンの没後である現代に生まれた逸話など、その内容は様々です。 コンパクトディスク(CD)は、人類が初めてデジタル方式を採用した記録媒体です。

現在ではDVDにその地位を奪われつつあるCDですが、音楽業界においてはその地位はいまだ健在であるといえます。 このCDが誕生する際に、ベートーベンが非常に深く関わっているのは有名な話です。

CDは、読み取り装置に赤外線レーザーを使いCDの記録面に刻印された微細な凹凸から0と1のデジタル信号に変換・記録された情報を読み取り、音楽や映像などの本来の形で再生する構造になっています。

CDの原型はオランダのフィリップス社によって開発され、現在のCDはフィリップス社とソニーの共同開発によって作り上げられたものでした。 開発途上の1980年当時、フィリップス社とソニーの間で「CDの記録時間」についての論争がありました。

フィリップス社は60分前後の長さに、ソニーは74分前後の長さを主張していたのです。この長さを決定したのが、ベートーベンの代表曲の一つである「第九」なのです。

ソニー側の開発者・大賀典雄は、「74分前後の長さならばオペラは一幕分途切れることなく収められるし、第九をはじめとするクラシック音楽の95%はCD一枚に収められる」と主張していました。この主張を後押ししたのが、有名な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンでした。

ベートーヴェンの楽曲についての逸話は、ベートーヴェンの晩年に秘書役を務めたアントン・シンドラーによるところが多いです。

例えば第5交響曲の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が『テンペスト』と呼ばれるようになったいきさつなどであります。

しかしベートーヴェンはシンドラーを信用しておらず、 シンドラーはベートーヴェンの遺品を勝手に処分するなどしているため、 シンドラーの書いた逸話が事実なのか疑わしく、現在では信憑性がほとんどないのです。

またベートーヴェンは政治的には自由主義者であり、 このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られました。 1812年、テプリチェでゲーテと会い、散歩をしていた際に、オーストリア皇后の一行と遭遇しました。

ゲーテが脱帽・敬礼をして一行を見送ったのに対してベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切ったといいます。 このため、ゲーテはベートーヴェンと絶交してしまいました。 ハイドンとの関係についても似たようなエピソードが伝えられています。

伝説によれば、ベートーヴェンの臨終の間際、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いたが、 彼は右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数秒間にらみつけた後、その目を閉じたのだといいます。

そして彼は臨終際、 「Plaudite, amici, comedia finita est.」(諸君、喝采を、喜劇(お芝居)は終わった) と発したと伝えられています。 ベートーヴェンの逸話として広く知られているものに、25歳頃に始まった難聴がある。

これは次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥ったとされている。 一説には「ベートーヴェンは耳硬化症という伝音性難聴であって、 人の声は聞こえなくても楽器の音なら振動で聞くことができた。」という説もある。

この説に関連して、ベートーヴェンは幼少時から既に伝音声難聴にかかっており、 年齢を重ねるごとにその症状が悪化していった、という話も時々見られる。 また、口にくわえたタクトをピアノに押し付け、歯から伝わる振動を音として捉えていた、 という話もあります。

この場合は音を『耳で聞く』のではなく 『骨で聞く』という骨伝道を利用したものだとされている。 このように難聴に関する様々な説があるのは、 ベートーヴェンの代表的な作品の多くは30代以降に作られた、ということが原因だと考えられています。

何故なら、この30代という年齢は彼の耳がほとんど機能しなくなった、とされる年齢だからです。

いかに幼少時から音楽教育を受け、類稀なる才能を持っていた彼でも、全くの無音の世界でこれだけの作品を作るのは、一般的に考えて非常に困難であることから、このように多くの説が論じられています。 音楽家にとって耳が聞こえないと言うのは、何にもまして致命的なはずです。

自ら命を絶とうと思っても不思議ではありません。しかしこの遺書は死ぬために書いたのではなく、 自分の気持ちを整理するため、死のうとまで思ったことを文章に残しておくために書かれたというのが、 一般的な見方になっているようです。

ただしこの時期から全く耳が聞こえなくなったのではなく、 少しずつ聞こえなくなり始めたというのが事実のようであり、 死ぬまで全く聞こえなくなることはなかったという説もあります。

例えばピアノ協奏曲第4番の初演では自分でピアノを弾いたようですし、 有名な話では第九の初演の指揮を自ら行ったという事実があります。 どちらも全く耳が聞こえない人にできることではなく、少しは聞こえていたのではないかと思います。

第九の初演では演奏後の大喝采が聞こえずに、 ソロの歌手がベートーヴェンをそっと客席に向かせたという逸話が残っていますが、 いくら作曲家とは言え、あの70分にも及ぶ長大な曲を、全く聴かずに指揮できるとは思えません。

特に当時のオーケストラの演奏力から言っても、作られた逸話だと思います。 いずれにしても、ベートーヴェンが絶望の淵に立たされたのは事実でしょう。 彼を形容する言葉として、「不屈の精神力」とか「闘志」とかいった言葉が使われるのは、 ここからの復活が凄まじいからです。

このあたりから作曲された約50曲にのぼる全ジャンルの曲は、 後に『傑作の森』とまで言われるほど、名曲揃いとなっています。 英雄・運命・田園・皇帝・ヴァイオリン協奏曲・熱情・クロイツェル・フィデリオなど、 ベートーヴェンを代表する曲は殆どこの『傑作の森』に属しています。

ちなみにこの耳の病の原因ですが、小さい頃に父親に殴られ過ぎたからだとか、 梅毒だとか、いろいろと言われていますが、最近の研究では、 ワイン好きが原因ではないかという説があります。

ベートーヴェンはワインが大好物でしたが、 当時のワインには鉛を含んだ甘味料が加えられており、 鉛中毒が原因で難聴になったのではないかと考えられています。

近年、難聴の直接的な原因についても数多くの説が論じられており、 確かなことは判明していないが、現在では「梅毒」や「鉛中毒」などが有力視されています。

梅毒の症状の中には、神経や脳、脊髄に至るまで様々な症状があり、 発病から10年以上経つとその生存率は極めて低くなる為、現在では鉛中毒が有力視されているようです。

また、ベートーヴェンは幼少期に父親からスパルタ教育を受けており、この際に殴られるなどして、耳に強い衝撃を受けた為ではないか、との説もあります。 近年になって、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されたことが判りました。

16世紀のヨーロッパではワインの甘味料が原因の鉛中毒が多発していた、という記述も残っており 年代を指定して飲むほどのワイン好きだったベートーヴェンも、鉛中毒にかかっていた可能性が出てきたからです。

鉛中毒の症状には腹痛や興奮状態など、様々な症状があり、慢性的な腹痛や下痢はこれが原因である可能性が高くなりました。 しかし、鉛中毒で引き起こされる難聴、というのは極めて稀な症状であることから、直接的な因果関係はハッキリしていないそうです。

またベートーベンの肖像画。 これは、学校の音楽室に飾られている事が多く、見た事のある人は多いはずと思います。 この肖像画の彼は、不機嫌そうな表情であることが分かります。


納得の逸話

絵のモデルになった当日、使用人が作った料理がとてもまずかったからこんな表情になってしまった、という説があります。 また、ベートーベンは、79回も引越しした、といいます。

では、なんでそんなに引っ越したかというと、「部屋のそうじするのが嫌いだったから」 そうじするのが面倒くさく、(そうじするぐらいなら、いっその事引っ越してしまえ)というわけであるようです。

ある引越しの際、大事な楽譜が見つからない。 がっくりしていたが、荷物のヒモほどいていると、なくしたと思い込んだ楽譜が食器に包まれて出てきました。 これには、彼は歓喜したらしいです。

ずいぶんガサツな人だったように思えるかもしれないが、コーヒー飲むときは、豆は60粒にしないと、気がすまなかったようです。 毎回きちんと60粒数えていたといいます。 大ざっぱな性格のようで、ひどく繊細な部分もあった。天才は、やはりつかみどころがないなぁ、と思わせる出来事でした。