性格・容姿

一般的に「天才」と呼ばれる人物は、普通の人とは違った性格をしていることが多く、「変人」や「奇人」などと言われることがあります。 天才的な音楽家であるベートーベンも、例には漏れず、完璧な奇人変人であったと言われています。

少年の頃からベートーヴェンは体格が良かったらしいです。 15才当時は広い肩幅と大きな頭、丸鼻で首は短く色黒、姿勢は前かがみで「スペイン人」という仇名だったといわれてます。

青年ベートーヴェンも骨太で筋肉質、強情そうだったが、この時点で初めて顔のあばたについての記述が出てくる。正確な時期は不明だが、天然痘にかかったらしい。 40才以降の壮年ベートーヴェンも基本的印象は同じである。

小柄(身長168センチ)で筋骨たくましく、色黒、あばた面、大きくて立派な頭に黒くて量の多いぼさぼさの長髪を後ろに流していました。 晩年は白髪になった。不精髭もしょっちゅうで、結構長くのばしていたらしいです。

大きな鼻は幅広く、鼻の穴もそれ相応に大きく、鼻くそほじり、鼻毛抜きは頻繁だったみたいで、ひたいは広く高かったようです。 目はそれ程大きくなく、笑うと顔の中に埋没してしまいそうなほど。楽譜を読む際などには近視用の眼鏡も使っていました。

目の表情は豊かで、何かアイデアを思いついたような時には突如として見開かれ、くるくると回転するか上をじっと見上げるか前方を凝視する、などの変化が起こり、それと共に小柄な身体も急に大きくなるような印象を与えたらしいです。

この突然の変化は散歩中であろうと会話中であろうとどこでもお構いなしに起こり、しばしば回りの人々の注目を集めたそうであります。 唇は良い形だった。

若い時には下唇が前方に出ていたらしいが、頭蓋骨を観察した限りでは上の前歯がかなり出っ歯でありました。あごの中央と両脇には縦のすじが刻まれていました。 手は大きく毛深く、指も太かった。

身体全体の動きは不器用で、しばしば物を取り落としたり割ったりしたといわれています。 ベートーヴェンは世間一般の幸せには縁遠かった音楽家です。結婚を望みながらも生涯果たすことができなかったし、音楽家として欠かせない聴覚を失った以外にも多くの持病がありました。

死因は肝硬変といわれています。 こうした病跡を現代医学の知識でとき明かす学問の分野があるが、1987年にウィーンの病理学者バンクルと内科医イエッセラーが共同でまとめた研究成果の中に出てくるベートーヴェンの様子が実に生き生きしています。

たとえば患者としてのベートーヴェンは全くの落第生でした。1時間ごとに小匙1杯ずつ服用するように、と処方された水薬は大匙1杯ずつ飲んでしまう結果、かえって気分が悪くなり、仕方がないので水をがぶ飲みして薬の効き目を薄めてしまおうと試みたりと。

食事療法などは三日と守れなかったようだ。またベートーヴェンは酒が好きで、病状にかかわらず飲酒を許してくれる医者が彼にとっては名医だった。 男やもめベートーヴェンの日々の食事は家政婦に作らせるか外食するかだった。

晩年のベートーヴェン宅で食事をしたヴァイオリニスト、ベームの文を見てみよう。1824年に書かれたものです。 「ベートーヴェン宅の食事は非常にまずい。

とても口に入らないような物も少なくなかった。スープは水の如く、肉は固く油は臭い。しかしただでさえ興奮しやすいベートーヴェンにこの事を悟られてはならなかった。私が招待された折りには卵が食卓に出された。

ひとつめを割ってみるとひどく悪臭がするので、それをそっと皿の隅へ押しやった。ベートーヴェンはこれに気づき、私の皿を横目でにらみながらムスッと一言も喋らなくなってしまったが、彼自身も自分の卵を割ってみたところ、同じような腐乱臭がたちのぼった。

ベートーヴェンはその卵をつかむやいなや窓から外の道に向かって投げ捨てた。 ふたつめの卵も同じ運命であった。

窓から放り投げられる卵が通行人に当って警察沙汰にでもならなければ良いが、と、人ごとながら心配になってしまった…》 ベートーヴェンは朝食にコーヒーを飲んだ。1杯につきコーヒー豆は60粒と決めていたらしく、客の前で豆を数える事もあったようです。

マカロニにパルメザンチーズをかけたもの、白身の魚のソテーじゃが芋添え、鹿、野鳥、猪などの野生動物料理、ポタージュ状のパンスープなどはベートーヴェンの好物でした。

夕食は質素で、スープ一杯に昼食の残り物をつまむ程度。 晩年には行きつけのレストランで毎土曜日に「ブルートヴルスト(血のソーセージ)じゃが芋添え」を注文し、レーゲンスブルクのビールを飲み、食後にパイプを一服楽しむのが習慣でした。

ベートーヴェンは酒好きでワインとビールを好んで飲んだが、ワインは高級なものよりも安いものの方が口に合ったらしい。飲み物といえば井戸水も大好きで、特に暑い夏の盛りには冷たい地下水をがぶがぶ飲んでいたようです。

ベートーベンは気分の波が激しかったようです。親切で無邪気に振舞うこともありましたが、反面、とても冷酷になる時もあったようです。 また、強いかんしゃく持ちであったことでも有名です。

気に入らないことがあったら、自分の身近にある物を投げつけること多くありました。 ベートーベンは小柄でしたが、とても筋肉質で体格がよかったので、その様子は、まるでクマのようと例えられています。

ベートーベンから音楽を教わっていた弟子の中には、ベートーベンに楽譜を破かれたり、噛みつかれた人もいました。 このような性格だったため、ベートーベンの弟子は、本気で音楽を学びたい人だけが、自然と残っていったそうです。

また、ベートーベンは服装にかんして、まったく興味がなかったそうです。その傾向は歳をとるほどにエスカレートし、浮浪者と間違われることも多かったそうです。

それでいて、潔癖症で手を執拗に洗っていたそうですから、やっぱり天才の考えることは、一般人には理解できそうにありません。 ベートーベンは、強い癇癪(かんしゃく)持ちであったようで何かあれば手近なものを投げる習性があったようです。

その暴れ方は、前述の「汚れ熊」の熊部分にかかるほど手のつけられないものだったようです。ベートーベンからレッスンを受けていた弟子には、楽譜を破かれたり肩に噛み付かれたりした者もいるのです。

そのためか、ベートーベンに師事したのは貴族子弟や音楽家の卵といったベートーベンの指導に耐えられるような人材だけだったようです。

3大巨匠として有名な、クラシック音楽家ベートーベン。ライオンのような髪型で気難しい顔をした肖像画で、その姿を覚えている人も多いかと思います。 ですが、ベートーベンの肖像画は、この1枚だけではありません。

ほかにもたくさんベートーベンの肖像画があり、有名なライオンヘアーの肖像画とは似ていないものもあります。 一体、ベートーベンの容姿は、どのようだったのでしょう? ベートーベンは身長が約167cmと、西洋人としては小さなほうでした。

また、当時の平均と比べてみても、小さめだったようです。ですが筋肉質だったため、とても体格がよかったそうです。 肌の色は浅黒で、当時とても流行していた天然痘という病気のあとがあり、肌がブツブツと酷く荒れていたそうです。

お世辞にもハンサムと呼べる外見ではありませんでしたが、とても表情が豊かだったそうです。 ベートーベンは、若い頃はとてもエレガントな服装をしていましたが、歳をとるにつれて無頓着になっていきます。

現在でも年齢を重ねるにつれて服装に気をつかわなくなる人はいますが、ベートーベンの無頓着ぶりは比ではありません。ベートーベンは浮浪者と間違えられ、逮捕されたことがあり、そのことについて、ウィーン市長が謝罪までしています。

ベートーベンは服装に無頓着でしたが、部屋も同様に荒れ放題とさせていました。それでいてお風呂や洗濯には気を配り、手を何度も洗うほどの潔癖症だったとも言われています。」 ベートーベンは、年を取るにしたがってどんどん服装に無頓着になっていきました。

現代でも、服装に無頓着なお年寄りは大勢いますがベートーベンは一味違います。浮浪者と間違われてしょっ引かれたこともしばしばだったようです。 ある弟子によれば「ロビンソン・クルーソーかと思った」といわれるほど、文明社会から乖離した服装をしていたようです。

その代わりなのかベートーベンは手を洗うことに執着していたと言われ、精神的な疾患があったのではないかと思わせる人物像であったようです。 ベートーベンの肖像画の中にはアーチェリーの山本博先生にそっくりなものもあり、私たちが知っているベートーベンのイメージから、かけ離れているものも多数あります。

まだ写真技術が開発されていなかった時代は、人の顔を知るためには肖像画に頼るしかありませんでした。肖像画も結局は絵なのでモデルと画家の胸先三寸で決まるといっても過言ではありません。

実際のベートーベンは、色黒で当時流行していた天然痘のあとが残ったブツブツ顔だったといわれています。

また、フリーランスの音楽家として活動するようになって以降のベートーベンは着るものに無頓着になっていき、「汚れ熊」というあだ名がつけられるほど雑だったようです。 また、身長も当時の平均よりも低く小太り気味であったといわれています。

また、40歳を迎える頃になると、難聴の他にも様々な疾患にかかり、 病による苦痛と、それに伴う作曲活動の停滞もあって、年を重ねるごとにその性格は厳しく、激しいものになっていったとも言われています。


晩年の音楽

しかしそれほどまでに気難しい気性であったベートーヴェンですが、一方では、冗談や語呂合わせを好んでいた、という話も残されています 作曲活動にもその性質は度々現れていて、諧謔(かいぎゃく)性が発揮された作品も幾つも残っています。

ベートーヴェンが家事を世話するメイドを頻繁に替えていた、と言う話は大変有名ですが、そのほとんどの場合はメイドの方が耐えられなくなって辞めるというものでした。

また、一番弟子であったピアニストのリースの回想録では、女性への関心が異常に強く、現代でいうところのストーカー並の求愛行動をとっていたという事もわかっており、何かに執着するときの感情の激しさは並外れたものだったようです。

気難しかったとされるベートーヴェンの性格は、このような家庭環境が大きく反映されているという説がある。 22歳の時、ウィーンでハイドンに教えを受ける。

ウィーンでの彼は、その抜きん出た才能をいかんなく発揮し、貴族社会に多くのパトロン、金銭的な支援者を見出していった。 しかし、耳の病は28歳頃から彼に重い陰を落とし、しだいに深刻化していった。このような悩みの中で作られたというが初期を代表するピアノ・ソナタ「悲愴」(1799年)である。

1801年、ピアノを教えていた伯爵令嬢(ジュリエッタ・グイチアルディ)に捧げたピアノ・ソナタ「月光」が完成。 1804年、ナポレオンの偉業をきっかけとした交響曲「英雄」が完成。

30代のベートーヴェンは、自殺すら考えた病と闘いながら、音楽家として極めて高い評価を受け「古典派」の中心人物として揺るぎ無い地位に就くまでになった。 ベートーヴェンの「栄光と苦悩」という関係は、これで止むことはなかった。

一時は心酔したナポレオンが掲げた理想の破綻に加え、ベートーヴェンの経済的基盤の揺らぎ、弟の死亡、ベートーヴェンが実子として引き取った甥っ子の自殺未遂と、次々にその身に降りかかる不幸。

それを乗り越えて、「交響曲第5番 運命」「交響曲第6番 田園」「交響曲第9番」といった大作、あるいは「エリーゼのために」などの名作を作り続けたというのは、ケタ外れの創作意欲であり才能であった。 1827年、56歳で死去。 「諸君、喝采を。喜劇は終った」という最期の言葉も有名。