青年期・幼少期

父親のヨハンも宮廷歌手でしたが、酒に溺れていたため、祖父のルートヴィヒが生計を支えていました。 1773年、一家を支えていた祖父ルートヴィヒが他界し、生活が苦しくなってきます。 父親ヨハンは堕落した生活により、歌手としての生命が終わっていました。

ですが当時、天才音楽家として有名だったモーツァルトにヒントを得て、モーツァルトと同じように、ベートーベンにも音楽教育をはじめます。 ベートーベンを第2のモーツァルトにするため、音楽教育はとても苛烈なものだったようです。

父親ヨハンの教育は、成功していたとは言いがたいものでしたが、ベートーベンは早熟の天才として才能を開花させていきます。 10代には、ベートーベンは一家の生計を支える存在となります。

1787年、16歳のベートーベンはウィーンを訪れ、憧れのモーツァルトと対面を果たしています。 この時、モーツァルトは30歳。ベートーベンはモーツァルトに弟子入りを申し込みましたが、母親であるマリアの訃報によって、故郷へと帰ることとなります。

モーツァルトは、この4年後に亡くなってしまうため、ベートーベンがモーツァルトの弟子となることはありませんでした。

普通ならば、ここでヨハンが父親として心を入れ替えて働き始めるところですが、不摂生によって歌手生命が既に終わっていたヨハンは、当時世間を賑わせていた天才音楽家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにヒントを得てベートーベンに音楽教育を始めます。

モーツァルトも音楽家の家系に生まれ、6歳の頃から宮廷演奏で名を馳せていた当時のアイドルアーティストだったのです。 ヨハンは、ベートーベンを第二のモーツァルトにするべくピアノ演奏を教え込み、7歳で演奏会に参加させたのです。

ヨハンによるプロデュースは、必ずしも成功と言えるものではなかったものの「早熟の天才」ベートーベンの存在を示すには十分なものであったのは確かです。 10代になる頃には、ベートーベンは同名の祖父に代わって家計を支えていたのです。

3歳のときに祖父が亡くなってしまい、それから生活は窮乏していったようです。

祖父は宮廷楽長でしたから収入もそれなりにありましたが、  歌手としての父親の収入だけになってしまった上、父親は酒乱で酒に浪費し さらに喉まで潰してしまったので 歌手として稼げなくなりました。弟が二人生まれ、生活は困窮する一方です。

そんな環境でもベートーベンは クラブサンを弾けるようになり、聞いた曲は クラブサンで 弾いてしまうようになります。その才能に気がついた父親は、わが子をモーツァルトのような 天才少年に仕立てて一儲けすることを考え、4歳からクラブサンとバイオリンを本格的に教え始めます。

父親は非常に厳しく、幼いベートーベンに毎日2~3時間の練習をさせたようです。さらに酒乱なので 酒を飲んで帰った深夜に ベートーベンをたたき起こして練習させた事も度々だったようです。

かばう母親を父親が殴るため、母親のためにも幼いながら 歯を食いしばって練習したといわれています。 そうして厳しい練習を積み重ねるうちに 実力はぐんぐん身についていきました。 何よりもベートーベンを励まし、支えてくれたのは母親で、とても 優しい人でした。

酒乱の夫ゆえに働きずめで大変だった中でも、常にやさしく夫には逆らわず黙々と働き続けたようです。 そんな母親に励まされて、8歳のころにはケルンの演奏会に出て クラブサンを演奏するほどになりました。

父親には教えきれなくなり、父の友人のプファイファー先生に教わる期間を経て9歳過ぎから 宮廷楽長のネーフェ先生にクラブサンやオルガンを習うようになりました。

ネーフェ先生は、ドイツ以外のイタリアやフランスの作曲家の楽譜も所持していたので、 広く世界中の音楽を知ることができました。 また、バッハの曲を徹底的に教えてくれたので 音楽の基礎となる勉強がしっかりとできるようになりました。

そして10歳からは、作曲の勉強を本格的に開始するため、新しく宮廷オルガニストに就任したばかりの若干31歳のネーフェに入門。 このネーフェが、ベートーヴェンの後の偉大な作曲活動に大きな影響を与え、音楽家としての基礎を築いたその人と言っても過言ではないでしょう。

ネーフェはベートーヴェンの弾くピアノの音が全く死んでしまっているのに驚き、曲作りについて、まず彼に心の中に井戸を持つようやさしく教えました。 「じっと目をつむって、井戸を思うのだ。静かな野原の真ん中にある井戸だ。

君はその脇に寄りかかって、じっと中を覗くのだ。毎日それを思うのだよ。そうするとね、やがてそこから想像がわきだしてくるのだ。他の作曲家の音楽などを聞くのではなく、街へ出て、風の音や小鳥のさえずり、木々のざわめきをよく聞くのだよ。」 ベートーヴェンは、おおらかなネーフェの人柄にすっかり魅了され、彼の仕事のない日は毎日レッスンを受け、和音の学習、楽譜の書き方から楽式に至るまでを着実に学んでいきました。

ネーフェはさらに、自ら所有するドイツ、フランス、イタリア音楽の楽譜を彼に貸し与え、多彩な音楽への興味をかきたて、特に大バッハ(1685-1750)とエマヌエル・バッハ(1714-1788)の教材を多く用いました。

これは当時においては非常に画期的なことで、つまり、当時のバッハはまだ一部の理解者だけが知る存在に過ぎなかったのであります。 そのことからも、ベートーヴェンがバッハの音楽をいかに詳細に作品分析したかがうかがえるが、そのほか鍵盤作品を室内楽に編曲する試みも行っており、それは後のあのそびえたつようなフーガとなって結実するのであります。

ネーフェはまた自分の不在や多忙の折り、ベートーヴェンに代役を任せて実戦経験を積ませ、音楽雑誌に彼のことを推薦し、その才能を讃えたりしたおかげで、ベートーヴェンは宮廷第ニのオルガニストの地位に就任したのでありました。

そのころ父ヨハンは自分の声の衰えを決定的に感じ、酒を飲む回数が増え、給料もそれで消えていくようになっていました。 そのため家賃やパンの支払いがたまり、母はやつれ、弟は黙ってパンを盗んでくるような状況になっていたのです。

楽士長は既に他の人に代わっていたため七光りも通用せず、一家の収入は益々ベートーヴェンの一肩に重くのしかかるようになっていったのでした。

そんな彼に、ネーフェは、 「世界中にはもっと飢えや病気で苦しんでいる人たちが大勢いるのだよ。君はただ音符をいじるだけのつまらない音楽家になってはいけない。世界には、そこに住む人間の数だけ悲しみがあるのだ。本当に優れた音楽というのは、ただ宮廷の貴族なんかを楽しませるのではなく、そういう人たちの悲しみをいやすものでなければいけないのだよ。」 と熱っぽく語っては励まし、ベートーヴェンの内に秘めた未知なる才能を既に見出していたのでありました。

働きながら学べる体制を作ってくれたネーフェの暖かい配慮に対して、後にベートーヴェンは、「将来自分が偉くなるようなことがあるとすれば、それは全く先生のおかげです。」と述べているが、実際彼の生涯を通じてこのような師は、ネーフェひとりのみであった。

ネーフェ先生が王様の御伴で長期旅行に行く際、城の礼拝堂のミサのオルガンを、ベートーベンに任せたのが 12歳のときです。 この役目をベートーベンは みごとに果たし、ボンの町で有名になりました。

そして、13歳で宮廷のオルガン演奏家として仕えるようになります。お金も稼げるようになり父親に代わって家計を支えるようになります。 様々な音楽に触れて さらに音楽を学ぶことに没頭していきますが、当時有名なハイドンやモーツァルトがウィーンで活躍していましたから、だんだんベートーベンはボンでは満足できず、ウィーンで学びたい思いを募らせていきます。

ベートーベンが16歳の時、訪れたウィーンで念願であったモーツァルトとの対面を果たします。 この時、モーツァルトは30歳で「フィガロの結婚」の公演を成功させた頃でした。 ベートーベンは、モーツァルトへの弟子入りを希望していたのですが、母マリアの突然の訃報によってボンへとんぼ返りしなければならなくなります。

この4年後にモーツァルトも鬼籍に入ったため、ベートーベンはモーツァルトの弟子になることは無かったのです。 22歳の時には、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンに師事したベートーベンは母に続いて父ヨハンを病気で失うことになります。


ベートーベンの道のり

母親マリアの死後、ベートーベンは幼い兄弟達のために、仕事をかけもちするなどして、生計を支えることになります。 1792年7月、ベートーベンはハイドンに才能を認められ、ハイドンに弟子入りすることになります。

11月には弟2人と一緒に、音楽の都であるウィーンへと移住します。 ハイドンに弟子入りし、本格的に音楽を学んだベートーベンは、1794年、はじめて「ピアノ三重奏曲」を作曲します。

ベートーベンは少年演奏家から音楽家へと歩み始めることになります。 こうしてベートーベンは弱冠22歳で弟二人を抱えて音楽の都ウィーンで新しい音楽家人生を歩み始めることになります。

ベートーベンはハイドン以前にも、宮廷オルガニストを勤めていたクリスティアン・ゴッドロープ・ネーフェにも師事していましたが、本格的な作曲技術を学ぶことになったのはハイドンに師事してからです。

1794年、ベートーベンは処女作となる「ピアノ三重奏曲」を発表し少年演奏家を脱却し音楽家としての道を歩み始めるのです。 28歳になったベートーベンは、耳が聞こえづらいことに気付きます。

音楽家にとって耳が聞こえなくなるということは、死に等しいことです。 30歳になるころには、ほとんど耳が聞こえなくなっており、ベートーベンは強い絶望を感じて、自殺を考えたことがあったようです。